数ヶ月前に都議会予算特別委員会で行われた「ツーブロック禁止の校則」議論。
( 天皇陛下もツーブロック。)
東京都教育委の藤田裕司教育長は「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがあるため、生徒を守る趣旨から定めている」と答えた。
そこから波及して最近では、厳しい校則やおかしい校則についてメディアなどで議論されている。
あずきちゃん自身も学生時代、厳しすぎる校則に疑問をずっと抱いていた。
内申に響いて志望校に進学出来ないから、高校生になるまで我慢しなさい。
ということで、中学卒業するまで疑問を抱きながらも校則は守っていた。
高校ではお洒落を楽しみたい。
あずきちゃんは、プチセブンの全国制服グランプリで毎回上位に入る可愛い制服で校則の緩い高校を選び進学した。
一方あずきちゃんの友達のごまきちゃんは中学の時、校則が原因で不登校になり引きこもりになった。
(ごまきちゃんと後藤真希さん本人とは全く関係ありません)
⇧まさにごまきちゃんの見た目はこんな感じ。
おしゃれをしたい年頃だから、ごまきちゃんは髪を金色に染め、ピアスを開け、メイクもバッチリで、制服を改造して登校した。
学校側「他の生徒の害だから、学校に来るな。」
と学校に入れてもらえなかった。
ごまきちゃん「これは個性。なんで個性を認めてくれないの?」
学校側「校則だから。」
学校側は「校則だから」の一点張りでごまきちゃんは、納得出来ない。
それが続いたことで、ごまきちゃんは家に引きこもるようになり、鬱になってしまった。
ごまきちゃんは日本社会に馴染むことが出来ず、現在は海外に住んでいる。
あずきちゃん自身も、厳しすぎる校則に疑問を持っていたけれど、正直「校則問題」については何が正しいのかよくわからない。
もし、様々なことを解禁したらどこまでが許容範囲かという線引きも難しいし…
でも、ワンポイントが入った靴下禁止とか、色ペンの使用禁止とか、地毛なのに真っ黒に染めないといけないとか、こういった意味不明な校則は廃止してもいいと思う。
だって学校側も、「校則だから」「ルールだから」としか答えられず、なんで禁止にしているのか教師自身もわかってないじゃん。
ただ、藤田裕司教育長が言った、「外見等が原因で事件や事故に遭うケースなどがある」についてあずきちゃんの経験から言わせてもらう。
あずきちゃんが派手な時代、事件に遭うどころか人が寄ってこなかったよ。
電車でも、あずきちゃんの隣りに座りたがる人はいなかった。
だけど、髪を暗くしてメイクもナチュラルにしたら、痴漢に遭うようになった。
見た目が派手な時は、キャバクラやホストの黒服に声かけられる率は高かったが、痴漢には一回も遭ったことがない。
だから、外見等が原因で事件や事故に遭うという意見に対して、
派手だから事件事故に遭う可能性があるのではなく、清楚でも事件事故に遭う。
むしろ、痴漢する奴は派手な女の子ではなく、おとなしめの女の子を選んでいる。
一方で、派手にしてると、チャラく、頭が悪そうに見えるから、学校のイメージを下げてしまうという意見にも納得できる。
やっぱり人間は第一印象で相手を判断してしまうから、派手な格好をしていると残念ながら、良い印象を持ってもらえないということも事実。
でも、あずきちゃんの経験から言うと…
第一印象が悪かった分、ちょっと良いことをするだけですぐにイメージが上がった。
だから、それは良かった。
ただ、本当に謎なのは
学生にはメイクするなと言うくせに、社会人になるとメイクは必ずしろ。というこの社会。
TPOに合わせないといけないことはわかるけど…
出かける時はメイクしなさい。
最低限のマナーだ。
でも、妹の大豆ちゃんは社会人の今でもスッピン。
母は、大豆ちゃんには「メイクしなさい」と言ったことがない。
大豆ちゃんは顔がはっきりしてるから、メイクしなくても整っている。
逆に、あずきちゃんは顔平たい族で凹凸がないから、メイクしないと超絶ぶっさいく。
あずきちゃんがブサイクだから、スッピンだとダメなんでしょ?
ブサイクなあずきちゃんと一緒に歩くのが嫌だからそういう風に言うんでしょ?
と母に歯向かっていた。
でも、今ではわかる。
顔平たい族が金パだと、スッピンの状態ではバランスがものすごく悪い。
ぶさいくさが際立ち、ただのチンピラにしか見えない。
(IKKOさんのことではなく、あずきちゃんのことね)
こういった過去から、今でも必ずあずきちゃんはメイクして出歩くから、「社会人はメイクをしなさい」に関してはなんとも思ってなかった。
だけど、アトピーで肌が荒れるという理由でメイクをしていない同僚に、上司が「メイクをしなさい」と言っていた時は疑問に思った。
「ルールだから」何?
ルールだから、臨機応変に対応出来ないの?
「ルールだから」じゃなくて、少しは頭使って考えられないのかねぇ?
融通ってもんが利かないんかね、この社会は。
法は人間が生きていく上で必須のものだ。
お互いのために作ったから、お互いに法を守るとき、安全になり自由になる。だから人法を作るようになったのだ。
しかし人法の中のある法はその法のせいでもっと不便を感じ、自由にできないところもある。
これは旧時代に該当する法を新しい時代になっても直さないで続けて使っているから、現実に合わないことで不便を感じるのだ。
だからそういう法は自由を与えるのではなく、むしろ自由を拘束するようにもなる。
また人間の法は武力的に治めるために作ったりもするので、人法は拘束する法も多いといえよう。
神様は人間を拘束し、制約するために法を作ったのではない。
聖書には「しなさい」という法があるし、「するな」という法がある。
しなさいということをしたら、神様の御心も成し遂げられ人間の願いも成し遂げられ、願っていた祝福も受けるようになる。
しかし、するなといったことをしたら、災いを受け、損を被り、神様の裁きを受け、苦しい刑罰を受けるようになる。
神様の法って、厳しすぎる。
縛られてる感じ。
って、正直思っていた。
でも、人間社会とは違い「ルールだから守れ」とは神様は言わない。
その法が存在するのにはきちんとした理由があるし、なんで守らないといけないのか、しっかり教えてくれる。
そして守れば必ず神様は祝福してくれる。
神様に聞きしたがって喜んで暮らしている人には法はとても理想的なものだ。
法を犯す人には法が拘束するもののようでも、法に聞きしたがう人は法によって自由を得るようになる。
2000年6月4日 法と罪と罰
神様の法は人生の答えだ。保護だ。青銅の城壁だ。
2011年10月24日 月曜日の明け方の箴言
「真理はあなたたちを自由にする」という意味がやっと最近悟れるようになった。